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		<title>アイデアのつくりかたとキューブリック</title>
		<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
		<description>@chs</description>
		<pubDate>Mon, 22 Oct 2007 18:24:15 +0900</pubDate>
		<language>ja</language>
		<generator>http://www2.atchs.jp/takekumamemo/</generator>
		<item>
			<title>名前: ◆ OZCI/VVVB2 2007/10/23(火)03:24:15</title>
			<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
			<pubDate>Mon, 22 Oct 2007 18:24:15 +0900</pubDate>
			<description>ＫＪ法とコザネ法について、
上記の本と竹熊さんがこの掲示板でかかれたこととについて、
どうもコザネ法の経験者としてはやや違和感があるので、
あとでこの掲示板にちょっと批判を書き込むかもしれません。
（いやオレも気まぐれなのでわからないけど。（笑））</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前: ◆ OZCI/VVVB2 2007/10/23(火)03:16:09</title>
			<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
			<pubDate>Mon, 22 Oct 2007 18:16:09 +0900</pubDate>
			<description>このスレッドがいちばんいいような気がするのでここにかかせてもらおう。

立花隆『「知」のソフトウェア』をこのまえ読了。

各論はべつにして、全体としてはおもしろかった。

上のほうでこの本をまだよんでないと書いたが、もしかすると、
わすれているだけで、むかしよんだかもしれない。

ソデ机を左右にすえた上へコンパネをのせて天板とし、
これを机とするのがひろくて簡単でいい──という意味のことを、
いつだったか立花隆でよんだ記憶がずっとあったのがその理由のひとつ。

もうひとつ、１文ごとに「のは本当かどうか？」などと文末に疑問をつけていけば、
だれのどんな意見にも反論がなりたつものだ──という意味のことも、
いつだったか立花隆でよんだおぼえが昔からあった。

どの本だったかわすれてしまっていたが、もしかするとこの本だったかもしれん。

この本は?「知」のソフトウェア?とか?情報のインプット＆アウトプット?とかより、
「わたしの記事のかきかた」という感じだとおもった。
立花隆がそれまでやってきた記事のかきかたの技術をのべたという感じがした。

よんでソンはない本だとおもう。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:メルヘンひじきごはん 2007/10/07(日)06:29:59</title>
			<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
			<pubDate>Sat, 06 Oct 2007 21:29:59 +0900</pubDate>
			<description>…

後年題材はルポ・小説だった巨匠は、うーん。チョイスはすばらしいのと、「カメラ技術アイデア」なら
わかるのと。

きょしょーは小山田圭吾そんにそつくりでごらまる。でも後年のお姿は真似しないでね圭吾にーちゃん。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:madi 2007/10/07(日)00:52:10</title>
			<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
			<pubDate>Sat, 06 Oct 2007 15:52:10 +0900</pubDate>
			<description>学術論文ですと、結論と梗概ができていないと発表できないことになっています。
長編の連載小説・マンガで10回分以上きまっているのはあまりないんじゃないでしょうか。
注文形態の違いが制作形態の違いに反映するのは当然かもしれません。
それと学術論文の場合の読み方とマンガや小説の読み方はかなりちがいます。
学術論文の場合はマンガや小説でいえば読み巧者しか読者がいません。
注のつけかたとか引用のしかたについて、おぬし、できるな、とみわけるレベルのひとにむけて書いています。
映画でいえば芸術映画しかない状態でしょう。ごくわずかの人間の説得のためにやるのでだいぶかわってきます。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:Gryphon 2007/10/06(土)21:26:33</title>
			<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
			<pubDate>Sat, 06 Oct 2007 12:26:33 +0900</pubDate>
			<description>面白い話題ですね。

ちょっと別の人の話で、知っているネタを引用します
夢枕縛がこの前映画化もされた伝奇小説「大帝の剣」を書いていたときの話
人がかく書いている。

＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝
（「妖魔復活編」あとがき）

おれは怖くなった。

いくらでも広がっていきそうになる風呂敷を、なんと、このおれは、
押さえながら書いているのであった。（略）ようするに、思いつきの
垂れ流しになってしまうのではないか。

【註：そうしたら、ある編集者が】

「かまうことはありません。大風呂敷、結構ではありませんか。
いくらでもがんがん広げてしまえばいいではありませんか」

どん。

「しかし、そうなるとプロとして結末の責任をどうとって
ゆけばいいのか、非常にむずかしくなってしまうのでは
ありませんか」
（略）
「これこれという作品をごらんなさい。だれそれさんのあれはどうですか。
それに、あの作品があるではありませんか。それらはみな、どれも、伝奇
小説としては傑作と呼ばれているものです。しかし、どの作品も例外なく
結末が書かれていないのです」


いや、「結末が無い」というやり方はいくらなんでもこの場合は
反則か（笑）</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:渡辺裕 2007/10/06(土)21:13:35</title>
			<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
			<pubDate>Sat, 06 Oct 2007 12:13:35 +0900</pubDate>
			<description>表現者のセンスって、子供の頃に自分の周りにどんな表現物が置いてあったかで８割がた決まっちゃうと思うんですよね。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:渡辺裕 2007/10/06(土)21:11:56</title>
			<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
			<pubDate>Sat, 06 Oct 2007 12:11:56 +0900</pubDate>
			<description>　古典文学とか落語とか昔話とか演劇の類を陳腐と言わず何度も見聞きしてると、組み合わせや発展系のパターンが無数に出来ますよ。
　将棋指しが定石を徹底的に研究して、細部は閃きでどうにかすると。勝負どころの勘みたいなもんですか。
　元々の思考回路にもよるんでしょうけど、子供のうちからそういった文物に触れて育ってるか否かで、また随分違うかと。

　結局、作法作法と言ったところで定石的なものに留まるわけで、そこから一歩先の独自性を発揮しようと思ったら、生まれ育ちがモノを言うのかな？　と思います。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:たけくま ★ 2007/10/06(土)19:47:31</title>
			<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
			<pubDate>Sat, 06 Oct 2007 10:47:31 +0900</pubDate>
			<description>この問題のエントリ立てました。ちょっと仕事でしばらく参加でき
ないかもしれませんが、読んでますので◆ OZCI/VVVB2 さん、続きが
ありましたら こちらにお願いします。

http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/36/</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:たけくま ★ 2007/10/06(土)18:31:56</title>
			<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
			<pubDate>Sat, 06 Oct 2007 09:31:56 +0900</pubDate>
			<description>これは平凡・非凡というより、物書き（または物語の作り手）としての
タイプの違いということでしょう。憑依型作家にとっては、学術論文の
ような文章は、とことん苦手だったりします。
筒井康隆の『短編小説講義』（岩波新書）に、「物語素」という筒井の
造語が出てきます。つまり物語には「物語素」と呼ぶしかないような
自立した運動性を持つエネルギー体のようなものがあって、それも
いろいろな種類がある。作家は、いろいろな物語素の組合せで作品を
作るが、物語素の相互作用で作品の方向が自ずと決まってくる、
みたいなことを言っています。この本は、なぜ憑依型の物書きが、
展開もオチも決めずに作品が描けるのか？　という疑問について
書かれているように俺には読めました（記憶で書いているので、
細部は自信がないですが）。

ちょっとこれは面白い問題で、コメントスレで書くだけでは少し
もったいないので、近く独自にエントリを立てたいと思います。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:たけくま ★ 2007/10/06(土)18:19:55</title>
			<link>http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/10/l10</link>
			<pubDate>Sat, 06 Oct 2007 09:19:55 +0900</pubDate>
			<description>ＳＦ作家の平井和正氏は「シャーマン型作家」の典型ですね。自ら
「お筆先」と言っています。自分が書くというより、作品が作家に
書かせていると。「かりに誤字脱字があっても、それは天が
自分に書かせているのだから、直してはならない」みたいなことを言ってて、
さすがにこれは極端なケースですが。
しかし作家やマンガ家がよく言う言葉で「キャラクターが勝手に動いて困る」
というのがあって、これはわりと一般的な現象だと思います。
永井豪も「憑依型作家」で、『デビルマン』の後半の展開などは、
作品に着手した時点で作者はまったく考えていなかったものだそうです。</description>
		</item>
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